舞台『カモメ』演出考察的劇評

宮武侚史


 

アントン・チェーホフ作『かもめ』の翻案・構成舞台である。

 

「アントン・チェーホフ作『かもめ』の現代日本版の稽古にはげむ俳優たちの「舞台裏」物語。彼らは実生活で、登場人物に似た筋書きをたどっていく。フェイクとリアルの仮面を使い分け、作家の筆で現実をも脚色されながら、たどり着いた「舞台」で待ち受けているものとは。」(パンフレット内「あらすじ」より)

 

パンフレットの「あらすじ」に記されている通り、入れ子構造は三重にして多層で、「役柄」と「演者」と「本人」との演技スタンスが交錯する。その微妙にたゆたう「演者」の錯綜が、ドラマ・シーンとしてはわかりやすく演出構成されるが、それが逆に、不可解でもある。俳優たちは原作『かもめ』の「登場人物に似た筋書きをたどる」「実生活」を演じる。「実生活」も作家による「脚色された現実」の虚構造で、実際には「実」も「虚」であり、「現実」も「非現実」の「虚構」なのだ。その虚構下に、実「演者」たる実「本人」が実在しているはずなのだが、「役柄」や「本人」の本性は見えず、それぞれ俳優の度量が暴露されてしまう。いかに演劇と演技とに向き合ってきたかの、実状と事実、それが晒される。

冒頭において、本作品の構成・演出「神保治暉」役(本人)を登場させ、観客へ問う。

「演劇を続けるべきでしょうか?」

これは、今回の上演実情を踏まえた「演劇人」たる「本人」の「本音」なのか? 

今のコロナ禍の演劇界状況下、あまりに正論的で、かつてのアバンギャルド演劇的な終演アナウンスから始まる手法にも似て、観劇初頭の露骨な提示に悪寒も走る。

舞台は、某演劇チームの現代版『カモメ』の稽古進行と、個々の俳優陣の実状況とが、混交して進行する。ドキュメント風に、映像カメラによる「今」の実写投影も併用される。当然ながら、チェーホフ作『かもめ』の作品内容よりも、『カモメ』稽古での、俳優陣の製作過程での人間像に重きがおかれる。ゆえに原作の魅惑的な多くの謎(登場人物表記の謎、トレープレフ姓父親の謎、四幕ニーナ再来訪の謎、不可解なマーシャの謎、など)に切り込んではいない。幕尻のトレープレフの、拳銃か猟銃での自殺かは、日本環境では可能性が薄いせいもあり、演者の首吊り自殺で終演させている。だが、首吊りは銃自殺よりも悲惨で凄惨な想像絵図となる。

日本では未だ、新劇の近代リアリズム演劇志向と、現代のメタ演劇やポストドラマ演劇気質を混濁させている作風や演出趣向が多かろう。演出・神保は、それらを踏まえて、表現異種亜種を清濁併呑し、台本の多層構造をもてあそびながらも、リアリズム演劇の「虚」=ウソを鋭く切り刻み、「実」ドラマを進行させようとする。その決断と勇気は並外れている。劇中劇らしき入れ子構造ではなく、ドキュメント風な趣向でもある。映像ならばドキュメントは可能だろう。しかし、演劇は事前の虚構構築とならざるを得ず、その事実プロセスを払拭することは不可能に近い。似非ドキュメント手法で虚構築する術となる。ゆえに、生配信するがごとく、バック・ホリに映し出されるカメラの「今」映像がまさしくドキュメントであり、その映像世界が妙にリアルだ。その二次元映像が、ドキュメント風に混乱する三次元の、過去の遺物となる新劇劇団的人間模様の稽古風景の模倣を、虚構造で「演じる」役者の三重のウソを、より鮮明にしてしまう。見飽きた偽リアルな「演じる」がさらけ出されてしまう。俳優にとっては度量と技術が裸にされる。その、演劇の虚構造の特質、常套たる「リアリスティック」戯演技が、リアルにストリップされる。演出として、その狙いがあることは明らかだ。

しかしながら、人間のリアルとナチュラルな「実在」を、演劇を媒体に、「役柄」と「演者」とをリアリスティックに虚構「実存」させて、ヒトの「人間の真性」として浮かび上がらせるまでには至らない。画した演出的提言やテーマ性も、演劇創造の特性である「虚構」に飲み込まれてゆく。舞台演技では「本当のリアリスティック」「生のリアリスティック」はない。「リアリスティック」とは、人間が創作し、「本物」として幻視垣間見せるもの、見えない「本当」の「人間の真性」を具現した、または、顕現させた構想創作物を言う。天然はリアルで、芸術はリアリスティックだ(芸術とは他者の理知思念で利権的に定めたリアリスティックな創造物への指標にすぎないが)。俳優陣はリアルな「演者の実在」とリアリスティックな「役・役割での実存」との迷宮で、もがいている。「演じる」虚偽にのまれてしまう。演出構想としては、トレープレフで例えれば、トレープレフ出生の秘密と勝手恋愛の苦悩と、演者のジレンマと、本人の生きる苦悶、それらを相関共有し、「演者本人」としても、そこにありたいのだろう。リアルな「ヒト」を舞台顕現化したいのだろう。が、そうはいかない。創造虚構たる舞台は、人間そのものと同じく、混沌にして正解はない。俳優は「演じる」に無意識下で「演者」の本性を隠し、自己防衛してしまう。それすらもさらけ出す役者は、恵まれたる天性資質で、稀だ。理知思念で仕掛けるのは演出だが、上演の質はすべて役者による。舞台の特質であり、盲点でもある。

チェーホフは、いままで書いていたロシア風笑劇(Шуткаシュートカ 小喜劇)ではなく、『かもめ』は長編でもあり、ロシアでは初めて、欧州作家風にギリシャ悲喜劇の人間喜劇を模して「四幕の喜劇(Комéдияカミェーヂャ)」と冠した。初演は1896年、喜劇女優レフケエヴァ公演の前座としてペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場で、不評をかった。モスクワ芸術座再演時には、作家チェーホフや俳優・演出担当スタニスラフスキー、作家・演出担当ダンチェンコ、異才俳優メイエルホルドらも、はっきりとしたリアリズム演劇思念の確立もなく、頓挫の連続であったことだろう。そもそも「リアリズム演劇」とは、当初から彼らが冠したわけではない。

この作品『舞台カモメ』演出の神保治暉も、『かもめ』時の巨匠たちと同じく、新たな演劇に挑戦している。そのことが素晴らしい。演出家として稀有なのだ。今、成し得なくても、近々に、『舞台カモメ』を伝説にしてくれるに違いない。

 

演出・神保の「『かもめ』解体考察」の冒頭にこうある。

 

「“生活・生死・恋”3つの解体考察ののちに見えてきたのは、彼らが「人格」を意図的に操っている点に喜劇性があるということ。今回の解体考察のテーマは“ペルソナ”だ。(略)」

 

演劇行為の原点ともなる「ペルソナ」は、「人間の真性」を露わに模した変身アイテムでもある。三島由紀夫も自らにペルソナを仮し、好んで演じ、そして憤死した。仮面の質も、意味も、仮面演技も、今少し踏み込んで創作しなくてはならないだろう。