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繰り返される「演劇」への応答 ── 

エリア51『カモメ』

河野桃子

 

 「よろしくお願いします!」と10名の俳優が舞台上に出てくる。うち2人の男女にのみ照明があたり「演劇をやめる/やめない」と揉めはじめる。はっきりと答えが出ないところに劇作家・神保(神保治暉)があらわれ「演劇を続けるべきでしょうか?」と疑問を投げかけ、「とりあえず続けます」と物語を進めていく。

 

 始まったのは、ある劇団の顔合わせ。アントン・チェーホフの『かもめ』を現代に置き換えた舞台『カモメ』を2021年12月に上演するという。作・演出を担当する神保と10名の俳優は稽古を進めていく。しかしいつの間にか日常と劇中の世界が入り混じり、劇中で恋人を演じる俳優たちは実際に恋人同士になるなど、物語と同じ展開をたどっていく……。このまま物語が進めば、俳優たちはきっと不幸になるだろう。『かもめ』には恋人の心変わりや、死など、悲劇的なことがたくさん起こるからだ。

 しかし『かもめ』は喜劇である。少なくともチェーホフは喜劇として書いた。劇作家である神保は「この物語を喜劇にしなければいけない」「どうすれば喜劇になるだろう」と考え、「俯瞰して見れば悲劇は喜劇になる。俯瞰するためには、自分が物語の外に出よう」と思い至る。

 稽古場に神保があらわれなくなったことで、俳優たちは自分たちだけで稽古を進めなければいけなくなる。台本はまだ途中だ。試行錯誤を繰り返すが、作家/演出家を失ったことで意見の対立が起き、劇団は崩壊しかけていく。──しかし、このように俳優たちが右往左往する様子そのものが、物語から外へ飛び出した神保が書きすすめている物語なのだった。

 

 作中に登場する劇団は、エリア51そのものを連想させる。2021年12月という公演時期が重なるだけでなく、正式な劇団員は神保と、カドタ役の宗ちゃん(門田宗大)の2人。ほかの俳優の名前も、実際に演じる俳優の愛称とほぼ同じだ。そのため観客に「これはエリア51が今作に向けた稽古の様子なのかな」とも想像させる。

 エリア51は2020年9月から『かもめ』をさまざまな切り口で現代日本に置き換え、連作として上演してきた。同じようなことは『かもめ』が初演された125年前からおこなわれている。これまで何度もさまざまな演出家や俳優によって繰り返し、繰り返し、『かもめ』の筋書はあらゆる方法で上演されてきた。しかし125年間ずっと悲劇的な物語が上演されるのを見続けてきたカモメ(山崎まりあ)は「一度もまともな喜劇になっていない!」と憤慨。カモメは、神保に頼らず自分で喜劇にするしかないと、物語に入る決断をする。

 

カモメとペルソナ。演劇の協働とは。

 このカモメという役だけが、象徴的な役柄だ。ほかの10名の俳優と神保は現実の人物を思わせるが、カモメだけはチェーホフの書いた作品のことである。カモメの「この物語を喜劇にする」という決断の直後、幕間に入る。10分のインターバルを経て、後半はガラリと物語が変わった。それまでほかの登場人物とは一線を画して進行を見守っていたカモメが、積極的に物語に介入してくるのだ。カモメは劇団のプロデューサーとなり、なんとか俳優たちをまとめ、無事に上演させようとする。

 カモメという存在は、役柄以外でも象徴的に登場する。たとえばカモメの形をした『かもめカード』という白い紙が、舞台後ろの壁に何枚も貼られている。そこに書かれているのは「あいさつ!」「みんな仲良く」「せりふを覚えよう」「やり方を押し付けない」「技術を教え合おう」「イメージを共有する」などの演劇についての主張やアイデアだ。作・演出が不在となった劇団で、稽古に迷う俳優たちが演劇論を交わすたびに、かもめカードはどんどん追加されていく。どう演じればいいのか。どうやって他人と一緒に演劇を作ればいいのか。

 増えていくかもめカードの群れは彼らがたどってきた創作の積み重ねでもあるし、彼らをがんじがらめにする共同体のルールでもある。そして、かもめカードに書かれた言葉は彼らの「演劇」そのものだ。「演劇」はカモメの姿をして、舞台の後ろを飛び続けている。

 

 大きなテーマのひとつでもあるのが『ペルソナ』だ。ラテン語の『ペルソナ』は「仮面」や「役割」を意味し、英語のパーソン(人)の語源でもある。俳優に限らず人は誰でもペルソナを持ち、なにかの役割を演じている。劇中では、実際に仮面をつけたり、リアルタイムに映像をに出演させたりと、あえて演じている状態を作りだす。そのうちに登場人物たちは「なぜ演じるのか」ひいては「なぜ演劇を続けるのか」と自問していく。さらには「他人の仮面の奥は見えないから、“想像”しなければいけない」ことにも気づいていく。

 これは、どうやって他人と一緒に演劇を作ればいいのか、という問いにもつながる。異なる価値観、異なる目的、異なるやり方の他人同士がどうやって共働するのか。今作は、『かもめ』という作品づくりを目的として見せながら、共に演劇を創作する相手とどう向き合うかを模索しているようだった。実際、その二つは同じ意味でもあるのだが。

 

演劇は続いている。演劇を続けていく。

 今作の演出にはいくつかのルールが設けられている。パン!と手を叩けば演劇が始まる。ジリリリリと目覚まし時計の音が聞こえれば、今いる世界から目覚める。仮面をかぶれば、本心や正体のわからない誰かになる。そういった演劇のお約束を用いて、物語から外へ出た神保は俳優を操ろうとする。

 このように実際の演出家が「演出家役」として、あるいは劇作家が「劇作家役」として舞台に登場し、俳優を操る立ち位置になる演劇は多々ある。多くの場合は、作品の支配者になることで物語を掌握しようとする。しかし今作では、舞台上の神保はなにもすることができない。実際にはチェーホフの敷いた『かもめ』という物語のレールから外れることができていなかったことがあらわになる。

 しかし最後、神保は少しだけのシーンを書き加える。それによって、演劇は一人ではなく誰かとなら続いていくことが示される。「演劇をやめる/やめない」と揉めたとしても、たとえ結末が悲劇的でも、「起きろ」と鳴り響く目覚まし時計に気づかなくても、一緒に演劇について模索し続ける人がいるなら続けていく。

 

 今作は何層もの入れ子構造になっている。5つの層 ── ①劇中劇『カモメ』 < ②『カモメ』を稽古する俳優たち < ③俳優たちのようすを書く神保 < ④それらを演じるエリア51 < ⑤観客 ── が存在していて一見ややこしそうだが、俳優たちが互いの距離感をしっかりと理解していることで、複雑さはあまり感じない。また美術、小道具、照明、衣裳、音響などはいずれもシンプルに、抽象的な世界を埋めていく。最小限で魅せるには、最大限の工夫がいる。この世界観が緻密に調和していくために、俳優、作家、スタッフが互いに影響し合い、共に稽古を重ねてきたのだろう。そして最後に、観客の想像力をどれほど呼び起こすのか、そこには観客との対話がある。

 舞台は、幕が下りれば終わりだ。すくなくともその芝居は終了する。しかし演劇そのものは、一緒に作る俳優やスタッフがいて、足を運ぶ観客がいれば、その時その場所にしかないものが生まれる。誰かと共に丁寧に組み立てていくのならば演劇は逞しく続いていくことが具現化された舞台だった。続けていくということ。それは何千年も繰り返されてきた「演劇」そのものへのエリア51からの応答のようでもあった。一緒に飛ぼうとする誰かがいれば、カモメの姿をした「演劇」は飛んできて、また新たな幕が上がるだろう。

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